• 「トキワ荘の生活が楽しかった」鈴木伸一が語る わたしのアニメ史
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2019.07.08

「トキワ荘の生活が楽しかった」鈴木伸一が語る わたしのアニメ史

アニメーション作家・監督、漫画家であり、東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム館長を務める、鈴木伸一さん

“アニメのまち 杉並”からアニメ文化を発信することを目的として、すぎなみ協働プラザが今回の講座「日本のアニメの礎」を企画し、第1回としてアニメーション作家・監督、漫画家であり、東京工芸大学杉並アニメーションミュージアムの館長でもある鈴木伸一さんをお迎えし、ご自身が手掛けたアニメ作品も上映しながら「わたしのアニメ史」を語ってくれた。なお、この講座は、区内の様々な地域貢献活動に対して支援している「杉並区NPO支援基金」の普及事業の一環として行われた。

当日は、アニメーションミュージアムの藤田輝さんが進行を務めながら、最初に鈴木伸一館長の生い立ちを写真などを交えながら流れで紹介した。紹介が終わると、「もうこれで帰っても大丈夫なんじゃないかな(笑)」と言って場内を沸かす鈴木さん。そして改めて、時代を追いながら自分のアニメ史を語ってくれた。

戦時中は満州に住み、少年だった鈴木さんは飛行機が好きで「当時は飛行少年でした」と「飛行」と「非行」をかけて笑いを誘いつつも、終戦後、満州から故郷・長崎へ引き揚げてくるまでの話では、声を詰まらせる場面もあった。

中学を卒業するころになると、学童社から月刊で発行されていた『漫画少年』に投稿し、よく入選していた。後にトキワ荘の仲間となる、寺田ヒロオ、藤子不二雄(藤子・F・不二雄と藤子不二雄(A))、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、つのだじろうたちも投稿・寄稿していて、ここでお互いの名前を知ることになった。

学校を卒業してから印刷会社で「画工」として働いていたが、漫画家になりたくて、父親の知り合いの漫画家・中村伊助さんを頼って1955年に上京、しばらくしてテラさん(寺田ヒロオ)から誘いのハガキを受取り「トキワ荘」に入居した。トキワ荘の仲間たちとはよく交流し、たわいもない話をしていた。お腹が空くと近所の「松葉」でラーメンを頼んで食べたが、その際「面倒見の良い安孫子(素雄)さん( (A)先生の本名)がいつも伝令に行ってくれていた」と楽しそうに語った。

また、漫画の仕事がなくて新聞社へ就職の面接を受けることになると、給料のことを聞かれたら何と答えたらいいのか分からず「藤子さん(F先生と(A)先生)に訊ねたら、『3万円でいいです、と言ったら』とアドバイスしてくれたのでその通り言ったら落ちちゃった(笑)」(当時の初任給は1万1000円程)というエピソードが飛び出し笑いが起きた。
さらに、無事に就職できたデザイン会社へは背広で出勤していたが、帰宅してから着替えるのが面倒で毎日そのまま布団に入っていたら背広がダメになった、という話にまたまた場内爆笑!

それでもこの時期のことを振り返り、「僕はトキワ荘の生活が楽しかった」とうれしそうに仰っていたのが印象的だった。

その後、「(漫画『フクちゃん』で有名な)横山隆一先生がアニメを作るスタッフを探している」という中村伊助さんの紹介で横山先生の「おとぎプロ」に喜んで参加。尊敬する横山先生の元で『ふくすけ』や『ひょうたんすずめ』などのアニメ作品に携わり、アニメーターだけでなく、背景から撮影なども手伝ってアニメ作りの工程を覚えた。しかしテレビアニメ『鉄腕アトム』(1963年)が放送されると、自分もアトムのようなSF作品を作りたいと「おとぎプロ」を退職。トキワ荘の仲間たちと「スタジオゼロ」を設立した。ゼロでは会社の運転資金のためにマンガ『オバケのQ太郎』を描くことになった。

話しの途中、おとぎプロ制作の国産初の連続TVアニメ番組『インスタント・ヒストリー』(1961年)や、バラエティ番組内で放送された『おたのしみアニメ劇場』(1970年)の一部、懐かしいCMアニメなどの上映が行われ、多岐にわたる鈴木さんの仕事に参加者は目を丸くしていた。

上映後は、鈴木さんから「どれほどディズニーに影響を受けたか」が熱く語られた。ディズニー・プロ公認ファンクラブ「ディズニー・クラブ」(1952年7月に発足)に入っていたこと、またそこには、和田誠(イラストレーター、エッセイスト、映画監督)、おかだえみこ(映画評論家、アニメーション研究家)、月岡貞夫(アニメーション作家)、渡辺秦(アニメーション研究者)といった錚々たる人たちの名前があったことを話していて、そこでまた交友が広がったのであろうことが窺えた。

そして「とにかく手塚(治虫)先生とよくディズニーの話をした」という鈴木さん。
手塚先生に、「1950年に『白雪姫』が日本で公開されたとき、映写技師見習いの友達に映画館に入れてもらい40回も観ました」という話をすると、負けずぎらいの手塚先生から「私はバンビを80回観ました」と言われましたと、うれしそうに話した。

また手塚先生に誘われて、ロサンゼルスへ行った際、ウォルト・ディズニー・スタジオに在籍していたウォード・キンボール(『ピノキオ』のジミニー・クリケットなどを担当。伝説のアニメーター「ナイン・オールドメン」の一人)の自宅へ連れて行ってもらうと、その庭にはリアルサイズの線路が敷いてあり、実物の汽車を走らせているという話を聞いてビックリしたことなどを明かしてくれた。
ちなみにキンボールさんの自宅には、汽車見たさにウォルト・ディズニーもよく遊びに来ていたことなども披露してくれた。

また「横山隆一先生もオモチャの汽車が好きで、自分でレイアウトを作ったりジオラマも作って、汽車を走らせるだけでなく、家や橋なども自分で作って、それも楽しんでいた」とのこと。いまは高知にある「横山隆一記念まんが館」に展示されているそうだ。

最後に、自主制作作品の『ひょうたん』、日本アニメ—ション界のベテラン作家たちによるアニメ創作集団「G9+1」(一色あづる、大井文雄、吉良敬三、島村達雄、鈴木伸一、西村緋祿司、ひこねのりお、福島治、古川タク、和田敏克)による2011年の作品『tokyo SOS』のアニメ上映が行われた。

ユーモアと優しい口調で愉しげに当時の話をしてくれる鈴木さんのお話は当初のタイムスケジュール通りとは行かず、進行の藤田さんが「館長の85年の人生は2時間では語り尽くせないですね」と言うと、鈴木さん「今日の続きを聞きたい方はミュージアムへ来て下さい」と言って場内を沸かせた。

鈴木さんは、今年9月頃大阪で上映するための「G9+1」の新作にこれから取りかかるそうだ。新作の続報を楽しみに待とう。

◆「日本のアニメの礎」の第2回は、黒川慶二郎さん(アニメディア・ドット・コム 代表取締役)をお迎えして「アニメ—ション作家 手塚治虫の志を検証する」が7月7日(日)に開催される(申込受付は終了)。


※手塚治虫の「塚」は点が入る旧字が正式表記です。
※藤子不二雄(A)の「(A)」は丸囲みが正式表記です。
※石ノ森章太郎の「ノ」は1/4角が正式表記です。


鈴木伸一(すずき・しんいち) Profile
1933年長崎県生まれ。アニメーション作家・監督、漫画家。1941年、8歳から満州国(現・中国東北地方)鞍山市で過ごす。1945年終戦後、1946年に引き揚げて故郷・原爆被災1年後の長崎へ。1947年山口県下関へ転居(13歳)。その後、下関の印刷会社に就職するも漫画家になるため、父親の知り合いだった漫画家・中村伊助を頼って上京ししばらく同居するも、1955年に「トキワ荘」へ入居。その後、漫画家・横山隆一主宰の「おとぎプロ」に入社してアニメーターの道へ。1963年にトキワ荘の漫画家仲間である、藤子・F・不二雄、藤子不二雄(A)、石ノ森章太郎、つのだじろう、赤塚不二夫たちとアニメ制作会社「スタジオゼロ」を設立。『おそ松くん』『パーマン』など数多くのアニメ制作に関わる。現在、日本アニメーション協会名誉会員、東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム館長を務める。

文/村北恵子

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