• もし吾妻ひでおの美少女マンガを読んでいたら、『ジョーカー』も多少は癒されていたかも
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2019.11.29

もし吾妻ひでおの美少女マンガを読んでいたら、『ジョーカー』も多少は癒されていたかも

漫画家・吾妻ひでお(享年69歳) Photo/小林嘉樹

追悼:吾妻ひでお『SFと美少女とアル中と』

7代目アニメージュ編集長(ほか)大野修一

 吾妻ひでお先生が去る10月13日に逝去されました。享年69。

 最近、何かを見たり、何かを聞いたりして、吾妻先生を思い出すことが多いです。

 例えば、映画『ジョーカー』。

 あの、現実に〈妄想〉でたちむかった主人公の姿。異形のヴィランの物語から、濃厚に漂う〈暴力性〉を洗い落として行くと、『夜の魚』(1984)や『地を這う魚』(2005)といった闇を内包した傑作短編、幻想的でもある『海から来た機械』(1981)などそして当然『失踪日記』(2005)が現れてきます。

 芸人志望のピエロである不運続きの〈被害者〉アーサー・フレックが、自閉のはてに暴力/ジョーカーという〈加害者〉にいたったのは、簡単に拳銃が手に入ってしまうというアメリカ社会の必然だったかもしれませんが、同じく胸につまる物語だとしても、敗戦によって暴力の肯定を弾劾され、それよりも手塚治虫という神様によって、おたく的精神の苗床が発展した日本では、吾妻作品のような、可愛く&醜く、美しく痛々しい、ギャグが散りばめられた傑作群が生まれたのではないのでしょうか。



 私の個人的な思い出では、けっこうな機会で編集者としてお付き合いさせていただいたのですが、そこには良くしていただいた記憶しかありません。

 先生と声がけしたことがなかったので、以降は吾妻さんと呼ばせていただきます。



 吾妻さん&吾妻作品とは、私の人生では3段階でお付き合いさせていただきました。

 まず記憶として残っているのは、小学生のころ、秋田書店「まんが王」で読んだ『二日酔いダンディー』(1970 - 1971)、『エイト・ビート』(1971 - 1972)で始まり、『ふたりと5人』(1972- 1976)『チョッキン』(1977 - 1978)などなど、「少年チャンピオン」連載作たちを読んでいた、単純なマンガファン少年期。(その中では、『きまぐれ悟空』(1972)は、赤塚ギャグでは見慣れないタイプのキャラクターたち、そして手塚『W3』と通底する「まだ居るんです」オチもあり、SFへの傾倒を後押ししてくれました)



 そして第2期は、SFマンガとして愛読したひねくれ気味のSFファン期。

 徳間書店では、「アニメージュ」増刊として1979年にスタートした〈SFコミックス〉を冠にすえたマンガ誌『リュウ』(石ノ森章太郎オリジナルの『幻魔大戦』を看板にしたもので、その誌名は石ノ森の代表作『リュウの道』などのリュウ三部作からとられている)での作品群=『ぶらっとバニー』(1979-1982)やパロディ精神あふれるカラーマンガ『吾妻ひでおの幻魔大戦』(1980)(「幻魔大戦」のパロディは同徳間書店の「SFアドベンチャー増刊号/平井和正の幻魔宇宙」(1982)誌面で『わんぱく丈くん』を発表)。また「アニメージュ」本誌でも1982年4月号では、吾妻さんのパッケージによる「ロリコントランプ」が付録となりました。

 徳間書店以外でのSF領域内での活動では、早川書房「SFマガジン」での『メチル・メタフィジーク』の連載(1979)。今はなき東京三世社(-2010)の「SFマンガ競作大全集」での発表作。しかし、なんと言っても重要なのは奇想天外社のSF専門誌「奇想天外」。本誌別冊として刊行された「SFマンガ大全集 Part2」(1978)に掲載された『不条理日記 立志篇』、この短編1作で翌年の第18回日本SF大会「MEICON-3」で、第10回星雲賞コミック部門を受賞することになりました(星雲賞で「コミック部門」が設立されたのが前年からのことで、ちなみに第9回が竹宮惠子『地球(テラ)へ…』、つぎの第11回が 萩尾望都『スター・レッド』。お二人の「24年組」の巨匠に挟まれていることになりますが(竹宮惠子:昭和25年2月13日生、萩尾望都:昭和24年5月12日生)、昭和25年2月6日生の吾妻さんも明らかな「男・24年組」になるのです。

 またまた個人的なことですが、この「MEICON-3」が、私が初めて参加した日本SF大会で(当時15歳、地方在住のボッチSFファンでした)、はじめて生の吾妻さんをお見掛けし、「ファンです、頑張ってください」といま自問してみると「何を?」なお声がけをした記憶が残っています。

 『不条理日記』はその後、1979年には、当時話題となっていた自販機本「劇画アリス」にて「しっぷーどとー篇/回転篇/帰還篇/転生篇」と続編が連載され(当時の編集長は、のちにSF作家・コラムニスト・TV司会者となった亀和田武)、同年、奇想天外社からコミックスが発売されました。これは自販機本などを購入できない地方の高校生にとっては大変うれしいことでした。そして1981年には奇想天外社からは『奇想天外臨時増刊号/吾妻ひでお大全集』が刊行。

 八〇年代初頭の吾妻ひでお人気はすごいものでした。マンガ週刊誌を抱えるような大手出版社ではなく(秋田書店のようなマンガ出版の老舗も、例外としてありましたが)、1980年発売のコミックスが11冊、1981年が『少年/少女SFマンガ競作大全集増刊号』として発売された企画本『PAPER NIGHT ペーパーナイト』を含めると7冊、1982年12冊と毎月のように新刊が書店に並んでいたのです。

 まさに吾妻さんは70年代末から80年代初頭をかざるポップスターだったのです。


7代目アニメージュ編集長(ほか)大野修一/Photo:小林嘉樹

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