話を「映画」に戻しましょう。映画が映画たりえる構成要件は明言できるのでしょうか。
【尺】=上映時間でしょうか。それならかつて日テレ24時間テレビ内のアニメ枠作品は?
また、今回の『Gレコ』もそうですが、何部作といった形式はどうなのか(『宇宙戦艦ヤマト』からのこの公式がビジネスとしてのアニメを再生しました)?
【上映場所】=公開が、劇場なのか否かでしょうか。
ここでは、押井さんの語る「ネット配信否定論」(詳細は上記サイトを)が重要となります。
また、「MCU」をアトラクションイベントと批判したマーティン・スコセッシ監督の新作『アイリッシュマン』が劇場公開よりもNetflixでのネット配信がメインになっている事実をどうとらえたらいいのでしょうか。
【予算】=投資規模であり稼働人員、制作時間、のことになります。つまりどれくらいの回収規模が見込めるのかといった商業的な逆算が根拠となります。
上記サイトのインタビューでは、富野監督の発言から背景やディテールの徹底した件が拾われています。
【制作主義】=つくる側が「映画」をめざせば「映画」となる精神論。
【観客主義】=観る&観た側が「映画」として認識すれば「映画」であるという認識論。
押井さんは「映画」の特性として「時間の操作」をあげ、「アニメ」については、実写映画のように演出・編集による以外に、全ての動きにおいて「時間」を作り上げることが出来る旨を「やりがい」のひとつと語っていました。庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』などまさに、「俳優の演技」よりも「時間の操作」を演出の主眼とした、代表的な「映画」とも思えます。
はたして、「映画の本質」「映画が映画たる根拠」はどこにあるのでしょうか。
押井さんは「映画は鑑賞した観客同士のコミニュケーション、語られることによって完成する」として、公共性のある場として「劇場」の重要性を訴えていましたが、そういった「場」がいつまで維持できるのか。
実写の監督とアニメの監督では、そこに見ているものは違うのでしょうか。
様々なカルチャーが、旧来の基盤を失い、新たに根を張る場所を模索している昨今の問題のひとつに「映画」があるのは確かでしょう。
ジャンルは違いますが、「サブカル」の変化と根拠そして日々更新される分断について、
「猫舌SHOWROOM 豪の部屋」で吉田豪&松永天馬(アーバンギャルド)のふたりが語っていて、それら実は通底する問題ではないかと視聴しながら感じていました。黙認YouTubeは以下、
参考動画:豪の部屋 ゲスト:松永天馬 2019年12月10日(YouTube)
押井監督の記事の末には「インタビューの全文は
『週刊文春エンタ! アニメの力。』に掲載されています」とあるのですが、その収録媒体が「ローソン限定発売」という分断された販売形式となっているのです(本来、定価四九九円と記されているのですがAmazonでは「新品¥1500」となっています)。
ネットによって「繋がった」と思っていたら、いつのまにか「分断」されてしまった今、この冬もいくつか話題の映画が公開されます。たぶん、かつてのアニメブームを背負ったはずの年長のアニメファンは『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』に疑いなく足を運ぶか、もしくはちょっと首をひねりながら『ルパン三世 THE FIRST』に行くのでしょう。しかし、アニメが好きで幾度も劇場でアニメを観た経験のある彼や彼女は、『アナと雪の女王2』の公開館に足を運ばず、そんなこと関係なく、なにより大ヒットするのは『アナと雪の女王2』にきまっているのです。 ほかにもたくさんあるのですが省略させていただきます。
ということで、無性に「映画」のことが知りたくなったのですが、きっと、私がいまのいま知りたいことは、
蓮實重彦を再読しても仕方ないので、いろいろ考えてみたいと思う年末です。
ここ数年のうちに庵野秀明と宮崎駿の新作が劇場公開されるのですから、それまでの宿題といたしましょう。
『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』はゴールデンタイムから撤退してしまいましたし、テレビアニメというジャンルも、あと何年もつのか分からないのですから、考える猶予はそれ程長くないかもしれませんが。