• 『映像研には手を出すな!』を観ながら、ふたつの歌合戦について考える
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2020.01.19

『映像研には手を出すな!』を観ながら、ふたつの歌合戦について考える

『映像研には手を出すな!』を観ながら、ふたつの歌合戦について考える


 【メモ5】アベマTVで、ももいろクローバーZの『ももいろ歌合戦』を鑑賞する。ももクロのファンになったのは、ちょうど「Chai Maxx」のMVがネット上で視聴できるようになってしばらくしてからで、「クイック・ジャパン」がももいろクローバー(Zではない)の特集を初めてやった直前。2011年の初春。吉田豪氏がラジオなどで、最も、ももクロをおしていた時期で、吉田氏にラジオやほかでももくろについて言及・執筆したものをまとめて、ももクロ本ができないかという提案をし、そちらではなく『サブカル・スーパースター鬱伝』の単行本を編集したのでした。同書はサブカル関係者は40代で鬱になるといった本で、ちょうどその時期40代後半だった私は「鬱」予感を、ももクロちゃんたちを、勝手に「未来の希望」とすることで、回避していたのだと(今となっては)思います。ある種の鬱は、「昔はよかった」と「明日はいい日に違いない」の相克の過程で、「明日はいい日」が負け始めたとき、「未来の希望」が減少・摩滅によって発生するのです。

 そう、大切なのは「希望」なのです。

 人には「希望」が必要なのであり、もっといえば自分が他人の「希望」になりたいのです。
満足というのは「希望」になれた瞬間に訪れるもので、そこに手が届いていず、それを認めたくないものが『俺はまだ本気出してないだけ』とつぶやいて、目をそらすのだ。

 そしてアイドルはそこに存在することで、他人の「希望」になれる者のことをいうのです。
以前、モノノフはももクロに性的な欲望を感じないと、さまざまな表現で強弁してきました。それは性的な存在として対峙してしまった段階で希望ではなく欲望の対象になり、ガチ恋妄想の成就にしか「幸せな未来」が想定できなくなるからです(そうでないと、常に目が離せない絶望供給源になってしまう。だから恋愛感情は面倒くさい)。だから「応援」という言葉が流通し始めたのです。

 走っていくその背中、もしくはくるりと振り返った時に背負っている陽の光をみたいのです。

 性的なメッセージをデビュー時から欠落させてきたももクロとその運営は、逆に「昔はよかった」というメッセ―ジをつねに送り続けています。そうやって「昔」を常時補給することによって、日々変質し拡大している「不安な明日」との天秤がかたむいて、すべてがひっくり返らないようなバランスを保っています。その集大成のようなイベントが「ももいろ紅白」で、先述の「AIひばり」とは、手法も放送媒体もちがうけれど、同じ時間の裏表で「過去と未来の共存」を測っていたことが分かります。過渡期だぜ、令和。

7代目アニメージュ編集長(ほか)大野修一

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