【コラム】現実逃避に首ったけ⁉(6)妄想という絆、絆という妄想 『映像研には手を出すな!』の第三話、ますますもって面白い。
あらためて、本の山に埋もれていた原作コミックスを引っ張り出し、再読。
湯浅政明監督が、当該漫画の本質を、どう捉え、アニメ化するためにどう処理&演出しているかを読み取れて興味深い。話は、原作もアニメも第一話のタイトルにしている「最強の世界」にまで戻るのだが、この回では、はじめは浅草の「私の考えた/最強の世界」という個人の発言=妄想でしかなかったものが、共有されることが、物語の肝となるのだが、原作ではその共有のシーンには
「何か/見える?/水崎氏。」【1】「なんとなく/遠くに。」【2】「最強の、」【3】「世界…」【4】※【1】【2】(ビッグコミックス『映像研には手を出すな!』1巻31頁3コマ目)
※【3】【4】(ビッグコミックス『映像研には手を出すな!』1巻31頁4コマ目)
とフキダシ内のネームに記されているが、発言者はじつは明解ではない。
コマとしては、【1】と【2】は、ビルの隙間を抜けた後の地平線までの遠望が描かれた同じコマに(風景と搭乗機をさらに上空からとらえたロングショット)。
そして、【3】【4】はつぎのコマ。呆然とする3人の顔をならべた(金森の表情だけがすこし冷静に見えるのが芸が細かく素晴らしい)1コマのなか。
ネーム【1】の発言者は可能性としては浅草である確率が高いだろう。自分個人の妄想が、共有されたのかのかどうかを恐る恐る投げかける言葉として読み取るのがポピュラー。【2】は確実の水崎の言葉。「一緒?」という共同意識を確認する問いかけ【1】に、「うん」と同意している。そして【3】【4】は3人の誰の言葉かは確定していない。
この【3】【4】の発言の組み合わせにはいくつかのパターンがある。
パターンAとしては、全員=3人同時のセリフとして、ここで3人が共通の認識を得た――という、もっとも幸福な解釈。
パターンBは、セリフ自体はまだ浅草ひとりのものでしかないが、その隣には、その発言を否定することなく聞いてくれる他者が(とりあえずふたりも同席して)いるという少し意地悪な解釈。
パターンCは浅草・水崎ふたりの言葉として(前の【2】のネームがあるので)、クリエーター同志の一体感とそれを冷静に了解するプロデューサー・金森という配置。
それまでの、3人が協力して、「妄想マシン」に乗るというエピソードがあるので、幸福度の高いパターンAの解釈が読者にとっては選び取られるのだろうが(わたしも普通にそう受け取ったのだが)、よく考えるといやいやどうなのだろうか。どう読み取るのかで、彼女たちの関係性は変わる。
すこしさかのぼると、ネーム【1】のセリフについても、浅草の言葉ではなく、非クリエーターである金森が、「私は見えなかったが、あなたは見えるのでしょうか水崎さん」とした問いかけの発言であった可能性もなくはない。いじわるすぎか。
そのシーン。アニメ第一話では、はっきりした答えを描いていないのだ。
そのシーンにいたる前に、3人の息の合った共同作業で「妄想マシン(これもアニメでは原作にないシッポが加わりトンボ型となっている)」を操縦するアクション・シーケンスがたっぷり、カッコよく魅力的な「アニメーション=動画」として描かれており(原作はもっとあっさりしているし、アニメで彼女たちの飛翔=出発を邪魔しようとする水崎家の使用人・敵=現実の象徴までは登場していない)、観ている人はパターンAの解釈に近づくように構成されているが、ネーム【1】【2】はそもそも存在しないし、ネーム【3】【4】のシーンの処理は、水崎・金森がフレームに入っておらず、浅草のアップで、声も浅草役の伊藤沙莉の声だけで発せられる。つまり、アニメでは実は、ここで「妄想」を共有したということをほのめかせてはいるが、確たる証拠を残していないのだ。
つまり、「妄想が共有された」と観客は(演出によって)読み取れても、作品側は断言していないのだ。