一番わかりやすいのはラストの、マレー(・フランクリン/演:ロバート・デ・ニーロ)の頭をバーンと撃ち抜いてから、一拍二拍三拍置いてからもう一発撃ってる。何が怖いってその後に、自分でも収まりがつかなくて二つ三つダンスのステップを踏んでるところ、そこに僕は彼のピークを感じました。「怖え、踊るんだ」っていう。
あれは予定にあった芝居なのかどうか……でも結構アドリブがあったということも伝わってきていますし、もしかすると台本の指定とかではないのかなと。ホアキンの中にジョーカーが降りてきてるんでしょうけど、あの所在なさげにステップを踏んでいるシーンはとっても怖かったです。
枕を押しつけて母親を殺した後で吐く息もそうですね。あれは実際に吐く息をアテているので、ただの息ですが、どういうテンションで演じているのかを確認するために何度も観ました。僕は多分、ピークは最後のため息なんだろうと。殺しているときは彼の中で何かが上がっていく最中で、何かもう一つピークがあってため息が出る。
部屋の壁に仲間の頭をガンガンぶつけて殺した後に「今日俺テレビ出るんだよ、凄いだろ」って言ってみたり。常に「殺した後」に彼の中の何かがピークに達する。これはアメコミだよ、バットマンのジョーカーだよ、と振っておきながら、そこにそういうリアリティがあるのがハマるポイントなのかなと思います。
――ホアキン・フェニックスは何回か吹き替えされていますが、今までのホアキンと『ジョーカー』では違うなと感じたことはありますか?平田 過去の作品とは何一つ結びつきませんでした。今回の彼は別人ですもの。「これホアキン・フェニックス?」っていう感じです。といっても昔のホアキンを詳しく憶えているわけではないんですが、この間テレビで久々に流れていたのを立て続けに観て『
8mm』は思い出しました。地味な脇役なのになんでこんなにリアリティがあるんだろう、なんて思いながら。
若い頃から実在感のある演技をされていましたが、この歳になって熟成され、こんなお芝居するようになっちゃったんだっていうのは衝撃でした。静かに普通の日常を送ろうとしているアーサーが、テレビを観ていたら大好きな番組に呼ばれたような気になったりとか、何の取り柄も華もない、気の弱い男にリアリティを持たせるというのが、実は演じる上で一番難しいことだと思うんですよ。
――しかもそういった部分と、狂気の部分とがシームレスにつながっている。平田 日頃から変なことを言う人間が狂人になっても「いつからおかしかった?」ってなるでしょうが、アーサーのベースの部分がニュートラルな、気が小さくて優しくて「貧困層の一市民」であるというところ。そこにリアリティがあり、みんなが無理なくスッと入りこめたということじゃないですかね。
――そうした普段の演技のほうがホアキンの本領だということでしょうか。平田 普通に演じることも狂気を演じることも、両方とも彼の本領でしょう。吹き替えるにあたっては、「普通」って何だろうっていう感じです。お腹から声を出して笑うのは、ちょっと乱暴な言い方をすれば誰だってできると思いますが、なんでもないお芝居をなんでもなくできるというのは役者の極みだと思いますね。
――それをどれくらい再現できたと思われますか?平田 自分の芝居を客観的に観るというのは至難の業ですが、そういうなんでもないシーンこそ特に客観的に観られないですね。なんでもなくやってるつもりでも自分では判断できないので、そこは音響監督にお任せです。「大丈夫でした?」って確認して。「大丈夫。録ったの聞く?」って言われたら「あ、いいです」って。そこは音響監督を信頼して。信頼していつつも、何度も確認してましたけど。
でもやっぱりこだわるのはそういうシーンで、面会のときに「辛いのはもうたくさんだ」っていうところとか。ホアキンの芝居を観ていると、描かれてもいない色々な辛いシーンが勝手に想像されてしまうんですよね。それくらい凄い演技をする。彼は表情込みでやってるからいいけど、こっちは声だけなんだぞって。彼の上質な芝居にうまく僕の声が乗ることを祈るだけです。普通の台詞を「普通だったね」って言われるのが一番嬉しいです。