• 【藤津亮太・評】映画『若おかみは小学生!』は喪失と再生の物語 その2
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2020.05.16

【藤津亮太・評】映画『若おかみは小学生!』は喪失と再生の物語 その2

▲アニメージュ2018年12月号特集誌面


喪失と再生の物語(その2)
藤津亮太【アニメ評論家】

 『若おかみは小学生!』は、春の屋という小さな温泉旅館を舞台にした物語だ。だから多種多様なお客がそこを訪れる。原作から選ばれたエピソードは、出来事は基本的に原作と同様ながらも、“喪の仕事”にふさわしくなるよう、少しだけ読み替えられて配置されている。具体的に言うと映画に登場する3組のお客は、高坂希太郎監督いわく、それぞれがおっこの“分身”として位置づけられているのだ。このあたり『茄子 アンダルシアの夏』で故郷を捨てた主人公ペペに対して、故郷を離れられなかったフランキーというオリジナルキャラクターを配することで、ドラマを深めた高坂監督らしい解釈といえる。
 高坂監督によると、最初に登場する神田あかねはおっこと同い年で母をなくしたばかり。彼は「現在のおっこ」だ。そして2番目の占い師、グローリー・水領は「未来のおっこ」。占いも女将も接客業。他人を思う仕事という共通点をピックアップして、成長したらおっこもこうなるかも、という想定で描かれた。そして最後が、トラックドライバーの木瀬文太の息子・翔太。両親に愛され幸せそうな翔太は「過去のおっこ」だという。
 確かにあかねとグローリーは、おっこと同様、向日性の魅力と癒されるべき傷を共に持っているキャラクターとして描かれている。幼い翔太は天真爛漫で、“クララ”の要素はないが、それは父の文太が、傷を抱えた“クララ”だったからだろう(映画の最後に出てくる文太とその家族だけ、映画のためのオリジナルキャラクターである)。
 おっこは彼らと触れ合うことで、少しずつ変化する。彼らもおっこと触れ合うことで少しだけ楽になる。それぞれの心の中にいる“ハイジ”と“クララ”が、互いの“ハイジ”と“クララ”と出会い、ハイジがクララをアルプスの山へと誘ったように互いの心が変化していく。『アルプスの少女ハイジ』でアルムの山が心を回復させる場所であったように、「誰も拒まない」という花の湯温泉もまた、癒しの場所なのだ。原作に描かれた「おもてなしの物語」をそのようなおっことお客の相互作用として読み替えたのがこの映画なのだ。
 また、お客とのエピソードの合間には、おっこが両親や事故のことを思い出すシーンも盛り込まれている。両親はもういないと頭ではわかっていても、まだ心は追いついていない。だからこそ、おっこは夢の中で両親と再会するし、日常の中でも両親を幻視する。あるいは対向車線のトラックを目撃したことで、事故の恐怖が蘇って過呼吸になってしまったりもする。発見された“クララ”の要素を補強するこれらのエピソードによって、おっこは映画の中で、「若おかみ」という枠からはみ出して、人間として息づくことになった。
 メインのストーリーがおっことその分身によって進行する一方で、それに対するキャラクターとして配置されていたのが、花の湯温泉一の大旅館・秋好(しゅうこう)旅館の跡取り娘である秋野真月といえるだろう。彼女は努力家でしっかり者。同時に気が強く、派手なピンクを好む彼女は、おっこの正反対のキャラクターとして描かれており、いわば彼女は他人代表なのだ。“喪の仕事”がおっこ自身との対話であるのに対し、真月との関係は、知らない世界に触れて、自分にないものを知っていくという役割を果たしている。おっこは真月に反発したり、感心したりしながら、緊張感のある友情関係を築いていくことになる。

 このように描かれたおっこの物語は、さらに大きなものに二重に取り囲まれたものとして描かれている。
 まずは最初に取り囲んでいるのは、おっこの見守り役として登場する二人の幽霊の世界だ。ひとりはおっこの祖母・峰子の幼馴染・ウリ坊(立売誠)で、もうひとりは真月の姉・秋野美陽である。この二人は、それぞれ峰子と真月が心配でこの世に残ってしまった存在である。おっこが両親の姿を幻視するのと裏返しの存在といってよい。
 彼ら死者の世界が、生者の世界を取り囲んでいるように描かれることで、この映画が描いた“喪の仕事”は「見えなくても死者はあなたのそばにいるのだ」という形に静かに収斂していく。死の匂いのする本作だが決して不穏ではないのはここに理由がある。
 そしてその死者の世界をも外側から取り囲んでいるのが「時の流れ」だ。この映画は神楽が行われる春先から始まり、1年後の神楽で締めくくられる。作中では美術が木々の変化を丁寧に描いて、春夏秋冬の時間の流れを感じさせる。人間はそうした大きなサイクルの中にいるからこそ、“喪の仕事”にもちゃんと終わりがやってくるのである。
 おっこというキャラクターの親しみやすさを損なわず——ということは原作ファンやメインターゲットである小学生の視線を外していないということ——解像度を上げたことによって、本作はあらゆる観客に通じる普遍的な作品として完成したのだ。

本稿の前半「その1」はこちら



アニメージュプラス編集部

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