• 漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
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2020.08.24

漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」



漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
(*情報元:2010年発売『セラフィム』初回限定版付録「KON’S MEMORIAL」)
文:氷川竜介(アニメ・特撮研究家)

レアだった漫画作品出版の意義

 46歳の若さで他界した今 敏の才能の鋭さと豊かさは、何よりも個々の作品が視覚的なインパクトで雄弁に語っている。この未完の漫画『セラフィム』にしても、ページを開いたときに各コマから立ち上ってくる独特の緊張感や臨場感は、絵の濃厚さを媒介に激しく伝わってくる。それは彼が監督したアニメーション映画の底に流れるテイストと、本質的に同種のものである。
 これだけ特徴的なビジュアルクリエイターでありながら、今 敏の才能の全体像は従来つかみにくく、アニメーション監督作品への言及が中心になりがちだった。漫画家時代の作品が全般に入手難で、長編の『セラフィム』と『OPUS(オーパス)』の二作品は未完という事情もあって単行本化されず、目に触れること自体がレアだった。その状況が著者の急逝を契機に変わり、漫画家としての画業がリリースされるということには、切なさを覚える。一方で、メディアを越えて活躍した作家の特異性は、漫画・アニメの実例が両方そろうことで、改めて浮き彫りになることも多いはずだ。今 敏の才能の全体像を総括しつつ再評価し、世に定着させる一環と考えれば、非常に意義の大きい出版となる。
 今後のビジュアル文化の発展を考えたときにも「絵によってここまで物語れる」という点において、今 敏の業績はひとつの指標になるに違いない。この原稿ではそんな後続への呼び水となることも願いつつ、漫画・アニメーションと隣接する表現媒体を往還した今 敏の足跡をふり返ってみたい。

▲『セラフィム』連載第1回が掲載されたアニメージュ1994年5月号の表紙と口絵

アニメの本質に迫るアプローチ

 筆者が今 敏に注目したのは初監督作品『パーフェクトブルー』(97年)だった。ほとんど予備知識なく渋谷で観た同作は、衝撃的な出逢いとなった。「同時代的な風俗ディテールを取りこんで問題意識を絡めつつ描いている」という驚きと、「アニメでしか成立し得ない表現とは何か」ということへのひとつの回答を見せられた得心の両面から、大きな驚きと満足があった。
 監督とその作品に深く関わるようになった作品は『千年女優』(02年)からで、以後の『東京ゴッドファーザーズ』(03年)、『パプリカ』(06年)と、劇場用長編ではプレスシート、パンフレット、ムック、DVDパッケージなど、新作のたびにお付き合いさせていただいた(後に『パーフェクトブルー』再リリース版DVDでも長文を書く)。ことにDVDの特装版では絵コンテを含む分厚い解説書がつくのが定番で、各作品の微細にわたる監督インタビューを担当するのがいつも楽しみだった。それは自分自身がアニメという表現様式に抱く本質的な疑問への示唆となる知見が必ず含まれているからだ。
 そのきっかけは、宣伝会社から『千年女優』のプレスシート用の寄稿を依頼されたことだった。前作と同質の「アニメならではの表現」でありながら、サイコホラー、サスペンスではなく、トリッキーでユーモラスで茶目っ気たっぷりな娯楽方向に転じた本作は、SF小説を本格的に読み始めたころの快楽に通じるものが感じられて、解説は非常に楽しんで書いた。ただ、視線は作者に向けてというよりは、こうしたアニメ的な常識の枠組みを外れた作品の魅力を多くの観客に受けいれてもらいたいという意識だったが、今 敏監督自身がその拙文を気に入っていると聞き、実際に初対面でも「よく分かってらっしゃる」と言われ、いささか驚いたものだ。
 改めて読み返してみると、後半が今 敏監督の目指した方向性を、他の作品も含めて全体的に総括したものとしても読める。少々長くなるが引用してみよう。

この企画の出発点は、今 敏監督の前作『パーフェクトブルー』みたいな「だまし絵」のような映画を、というリクエストだったという。「だます」こと──つまり「錯覚」とは実は悪いことではなく、人間にとって非常に気持ちの良いものを内包する大事なものである。そうでなければ、この世の中に手品(イリュージョン)や、小説、演劇、映画という芸能・芸術が存在する理由がなくなってしまう。
 ましてやアニメは止まった絵が動くという「錯覚」に全てを依存する表現様式である。もともと1コマは静止して生命を持ち得ない「死んだ」絵。それが「生きている」と錯覚を覚えたとき、この生死の間から何か大きな実感がわいてくる。この感覚こそが、アニメーションの面白さの源泉なのだ。
 この作品では、こうした映画やアニメ、ひいては人生の本質に対する一段上の考察が、フィクション自体が持つ面白さを使ってエンターテインメントとして描かれている。千代子の過ごした虚構と現実、過去と現在、アニメ映画の世界と観客の現実、ファンタジーとリアルなど、本来は対置されるべきものに対して、ぐいっとひねったような処理が施されているのが、その大きな現れである。そのねじれた構造の中で、虚実が逆転し混然となったところで、最終的には人間が持つ矛盾に充ちた面白さが浮き彫りになっていく。
 これはまさに、昨今のデジタル的なオール・オア・ナッシング的価値観に基づく足し算・引き算の機械的映像では出せない、人間的な魅力に充ちた「かけ算」の映画である。時には気持ちよくだまされたいと、いつも心の奥で願って映画を観に来るあらゆる観客に向けて、ボーダーレスに開かれ参加を呼びかけるアニメーション──それが『千年女優』という映画なのである。

アニメージュプラス編集部

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