• 漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
  • 漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
2020.08.24

漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」


偶然が必然になっていく流れ

 なぜこんな風に印象をまとめたのだろうか? 思い返してみると、当時、筆者は「アニメはなぜ面白いのか?」という根源的でゴールの見えない疑問を抱き、考察のための時間が欲しくてフリー文筆業となったばかりだった。想像以上に多い依頼に対し、「ならば実務を通じて検証と考察を深めようか」と考え直した直後に書いた文章だったはずだ。
 正直言えば、これは『千年女優』のことを書きつつも「アニメはなぜ面白いのか?」への回答にもなることを試みていた。そんな絶好の事例とヒントをもつクリエイター今 敏監督が眼前に現れたことにも、大きな喜びがあった。強く求めれば、好機は向こうから歩いてやって来る……筆者自身、そうした半生を歩んで来たように思うが、これに似た『千年女優』の世界のとらえ方にも興味をひかれた。はたして今 敏監督へのインタビューでは、カメラマンの井田のキャラクターづくりに困っていたときに北海道の放送局から取材を受け、そこにモデルとなる人物を発見して大喜びしたエピソードが語られる。
 こうした「向こうから歩いて来る」というような事象が積み重なり、劇的でもあり奇跡的でもある大きな流れとなっていく作劇と世界観は、次作『東京ゴッドファーザーズ』でより顕著に示されている。偶然にしか思えない出逢いも、すべては「求め・求められる」という意味での「縁」のネットワークで結ばれ、「流れ」の中に位置づけられる。
 同作では、ホームレスたちの数奇な運命を司るのが東京という都市に宿った「八百万の神」として、フレームで切り取ったビルが「顔」のように見える演出が多用されている。だが、これは何も不合理なオカルト的な発想ではない。「価値観の連鎖と流通」という考え方をとってみれば、個人の価値観だけを前面に押し出したものよりは、むしろ大勢の縁によって結び目に編みあげられたものが、商業的・社会的にも大きく成就し得る。その流れを切り取るカメラが「神」を見ることになるという発想は、充分に合理的である。
 やはりこうしたミニマムからマキシマムまでを包括した上での、今 敏の合理的精神と発想に惹かれ、共感したのであろう。そして作品と取材を通じて伝わってくる言葉や映像への取り組み方も、自分自身のアニメに対する考えを深める触媒になった。大勢の手によって共同作業として制作されるアニメーションもまた、工程自体に「出逢い」や「縁」が多く含まれている。それゆえに価値観の高次ネットワークが必然的に編みあげられていることが魅力のひとつではないか……。
 今 敏監督自身が漫画家からアニメーション監督に軸足を移した理由も、おそらくその集団性が生み出すダイナミズムにあったはずだ。今 敏は自身で物語やキャラクターを創造することを含め、作家性があまりに際立っていて、しかも出版される絵コンテが緻密すぎるため、ある理想やイメージを提示し、上意下達的に分業制作をするタイプという誤解を受けがちだった。だが、取材からはそんな印象を受けたことはない。自分がやった方がいいからという合理精神が、むしろ前面に立っていた。
 最優先とされるのは「映画として、エンターテインメントとして」という観点であり、観客に対する「おもてなし」のサービス精神だった。「だまし絵」的な作風にしても、本質は純然たるサービスなのである。観客の心の揺らぎが加わって、だまされた時の快楽が触発されて初めて作品が完成する。それを考えれば、主体は「だます作者」ではなく「だまされる観客」の側にあることは自明だ。そしてアーティストとしてのスキルのすべてを駆使して観客を心行くまで楽しませようという意気込みが、あの少々行き過ぎの密度感の「絵」になって現れていたのだろう。

▲アニメージュ2002年8月号『千年女優』特集

虚実の臨界を突破する画力

 さてそこで焦点になってくるのは、今 敏を語るときに誰もが真っ先に語る「圧倒的な画力」の位置づけである。
 デッサン、パース、ライティング、画面構成、ディテールの描きこみや、執念深く微細に入れられたタッチなど、いずれもスキがない。総合的なバランスにも配慮され、要素を組み合わせて丹念に描かれた今 敏の絵。その視覚的な押し出しは、多少なりとも絵に興味のある人間ならば、首をつかまれてねじ伏せられるような圧力として感じられるはずだ。
 漫画『セラフィム』においても、絵の放つプレッシャーは絶大だ。空母の甲板や難民キャンプ、崩壊寸前の経済特区、地平を埋め尽くす墓碑銘など、行ったことのないはずの場所であるにもかかわらず、異様な臨場感が絵から伝わってくる。いつまでも見飽きず、目をそらすことができない吸引力。人の手で描かれたはずのものが、明らかに何か現実と同等の重みをそなえたものに変わっている。その点で、実に絵画的なのだ。
 その絵は精緻ではあるが、決してリアリズム一辺倒ではない。今 敏の画力は、時として現実の枠を大きく飛び出すイメージを妄想の領域から現実の世界へと引き寄せるために使役される。今 敏作品でよく言われる「虚構と現実」もコンセプトとしては対照的に置かれているものだが、彼の圧倒的な画力によってシームレスに接続される瞬間に価値がある。本来つながるはずのないものを隔てる境界が崩れ、臨界を越えて人の想像力を起爆したときに、絵だけが可能な魅力となる。
 現実的に思えた風景は、あり得ない手触りをたたえ始め、逆にあり得ないはずのアイテムは、不気味な実感を獲得して主張を始める。この虚実を結ぶ「トンネル効果」のような現象を無視して「今 敏は絵がうまい」「緻密で正確な画力をもっている」という評価レベルにとどめてしまっては、何か重大な本質を見逃してしまうことになる。
 『セラフィム』の例でいえば、「天使病」罹患者の完全変異体が、まさに虚実の壁を突破するシンボリックな「絵」だ。人としての形状がねじ曲げられ、背中から天使の翼のようなものが生えてくる残酷で、しかし静謐な光景。歪められた人体のビジュアルは解剖学的なレベルでの説得力を備えているため、読者は「もしかしたらありうるかも」という感覚に戦慄する。人の背に羽根が生えるというコンセプト自体は、宗教的なものを筆頭に古来から広く存在するため、同時にその美の記憶とも対比され、美醜が同時に伝達される奇妙な感覚もそこに発生する。
 題名の「セラフィム」も天使の名前だが、そのモチーフは幾多の商業アニメの中に無節操に取り込まれている。特に時代がくだるにつれ、魔法少女でも巨大ロボットでも、「翼の獲得」を究極のパワーアップとして盛りあげる演出がパターン化し、ツールになっていく。そうした固定観念に対し、今 敏の視線はいつも冷ややかで批判的だった。数学にたとえれば「公式」に相当するような枠組みを、彼はまず疑う。ただし正面から全否定するのではなく、いったん自分でモチーフとして取りこんだ上で、論理的な思考と絵の力の合わせ技でねじ伏せようとするのがすごい。
 こうした行為は弁証法で言う「正・反」に対する「合」を目指すものだが、職業人としての「絵描き」としては量産にそむくことになるから、苦しい道のはずだ。しかし、既成のものを乗り越えることで何かしら新しい地平へ一歩踏み出せるという確信が、ただでさえ鋭い画力に磨きをかけたのだろう。
 かくして確立した「天使病」のビジュアルは、物語レベルの「人類の存続が危うくなる」という設定とも共鳴し、禍々しい毒気を放つ。画力はこの場合、不安をはらみ恐怖を喚起するレベルでの切実な心理的プレッシャーにまで転化しているわけだ。この絵の重みは何のために必要なのか。最終的にはエンターテインメントにおけるカタルシスのためであることは間違いない。未完の本作でも、歳をとらない謎の少女セラがタイトルロールであることからには、クライマックスで真の「天使」の浄化をはたす予定だったはずだ。

アニメージュプラス編集部

RECOMMENDEDおすすめの記事

RELATED関連する記事

RANKING

人気記事