• 漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
  • 漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
2020.08.24

漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」


「映画のパーツ」としての絵

 こうしたコントラストを考えると、「漫画のコマ」としての「絵」は物語の運動に奉仕する有機的な「パーツ」だという正体が浮かび上がってくる。イラストのように一枚絵として完結するものとは違い、映像としての絵、つまり「画」の意識を感じる。今 敏がアニメーションの仕事を美術設定、背景原図、レイアウトといった職分から始め、そして監督としても映像の求心力をレイアウト中心に極めていった事実も、この「画」としての「コマの役割」に重なっている。
 それを念頭におきつつ漫画のコマを眺めていくと、ある事実に気づく。今 敏の絵は、「空間」をたくみにパッケージしただけでなく、常に「時間」を内包しているのだ。もう少し突っこんで言えば、「原因と結果」を暗示する時間が介在したような絵になっている。つまり時空間の相互作用に因果が絡むことで、「変化」への感興を生じさせるタイプの絵である。止まったコマでも「動き」が見えるのは、そのためだ。やはり表面的に整えられた「一枚絵」という範囲だけで、彼の画力を論じても意味が乏しいわけだ。
 この「時間と空間が因果律になる」というアプローチは、冒頭述べた「絵で物語る」という行為のひとつの実例である。「映画のパーツ」としての機能に必要とされる条件を充たしていると言い換えることも可能であろう。たとえ漫画の絵であっても……。
 もちろん一枚絵で完結するイラストにも、時空間や因果という要素は必ず入ってくる。ただし今 敏の漫画・アニメの場合は、複数の絵が相互に化学変化を起こし、大きな流れを生み出すことが主眼である。コマの配置や構図、サイズの大小のリズムも、その前提で決められている。この印象は先述の「人と人が出逢うのは偶然ではなく流れの中の必然」という話にもつながる。
 絵と絵とを連携させ、その弁証法的な相互作用で何かを生み出すという行為には、映画で言う「モンタージュ効果」と同じ性質がある。今 敏監督のアニメーション映画では「アクションカット」と呼ばれる編集技法が多用された。元来は動きの途中でカットを割りつつ、アングルの異なる構図をつないでいくテクニックである。動きや構図の視覚印象のつながり具合で観客の脳内ではカットとカットの断続が埋められ、コンティニュイティ(連続性)が生じる。そもそも映画とは、このレベルで「だまし絵」なのである。今 敏は自覚的にこれを上位のトリックとして応用してきた。特に虚構世界を強調した『千年女優』や『パプリカ』では、それが顕著だ。いずれも、舞台も場所も違うのに、主人公の情動が連続して続いていくように見える怒濤のシークエンスが見せ場となっているが、それは編集技法による二重トリックありきなのである。
 今 敏の学歴を調べると、武蔵野美術大学の視覚伝達デザイン科でグラフィックデザインを専攻している。したがってフレーム内のオブジェクトの配置が、どのようにして人間に伝わり、何が優先的に表層意識で認識され、深層意識には何が埋めこまれるのか、学術的に知悉していたはずだ。レイアウトとカッティングで煮詰めていくことで「絵」を「映画」にしていこうとする行為にも、そんな知見が総合的にはたらいていたはずである。

▲アニメージュ2006年2月号『パプリカ』特集

映画的な感興とは「変化」を描くこと

 ここであらためて「何が映画か」が気になるが、その命題はあまりに大きいので、生前の今 敏に取材したときに聞いた「映画的なるものへの想い」の一例に留める。そのとき語られたのは、「夜、主人公に自動車が近づいてくる瞬間、ライトがパッと人物を一瞬照らし出し、通りすぎたとき“プワン”とクラクションが鳴るが、ドップラー効果で音が低くなっていく」という事例だった。日常的にありふれて見過ごしてしまいそうなシチュエーションなのに、それが「映画的な想いをかきたてる」という話は印象に残った。
 漫画で初の長編作品『海帰線』には、ほとんど同じシチュエーションが描かれている。本作『セラフィム』でも物語冒頭、空母から発艦した戦闘機が通過するシチュエーションに類似の要素がある。擬音のサイズをよく見ると、大小の配置がまさにドップラー効果的な変化として描かれている。
 こうした「変化を描く」ことが、「映画にする」ということに直結したはずだ。その変化の描写を「光と影」や「情報量の粗密」、そして「移動の方向性(縦横・上下)」や「音の大小」と、対置する要素を駆使してリズミカルに展開する。そこにある種の予感を生じさせる「構図の推移」が加わることで、各要素は化合を生じて物語や人物に有機的なバックボーンを与える。
 この錬金術的なプロセスこそが「生命を吹き込む」という本来の意味での「アニメーション」である。それは刻々と死に向かって変化していくことこそが「生」であるという認識から生まれる。そうした逆説的な妙味を「観客を楽しませる」というユーモアを混じえつつ、「絵を通じて物語る」ことを生涯かけて追求したのが、今 敏という作家だったのではないだろうか。
 そう考えてみると、モチーフとして多用された「虚実のせめぎあい」も、「変化」という本質を照射しやすい方便に過ぎなかったように思えてくる。遺作となり、制作が続行されている(注:本稿執筆時)『夢みる機械』にもまた「人と機械」「堅いものと柔らかいもの」という対置がある。そこから「夢」の本質を見据えようとする作品なのだろうか。肉体が失われても、精神の運動は止まらないというのは、その意味でも「今 敏らしい」と言うほかない。その遺産を検証しつつ、最後のカードが開くときを待ちたいと思う。

【著者紹介】
ひかわ・りゅうすけ:アニメ・特撮研究家、明治大学大学院特任教授。今 敏監督作品では劇場映画4作品すべてのDVD解説書に参加、評論やロングインタビューを担当している。

アニメージュプラス編集部

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