• 【追悼】大塚康生 友人が目撃したその模型愛・晩年の素顔
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2021.05.04

【追悼】大塚康生 友人が目撃したその模型愛・晩年の素顔

愛車のジープに乗った若き日の大塚氏。 写真提供/大塚康生

その大塚さんが亡くなった。
2021年3月15日、朝、携帯に敏夫さんから電話があり、大塚さんが亡くられたことを知った。
実はその予感は、かなり前からあった。

数年前に大塚さんを訪ね、談笑し、日も暮れたので帰宅しますと言った時、やおら本棚から「これ、持っていきなさい。岸川さんのところにあったほうが良いと思う」といって、A4サイズの冊子を渡してくれた。それは半世紀ほど前に、大塚さんが参加していたAFV愛好会・三土会の同人誌「SANDO」だった。昭和40年代後半に作られたその同人誌は、青焼コピー(湿式コピーとも言う)で作られていた。現在のようなコピーが高価だった時代のことである。その会にはイラストレーターである高荷義之画伯(わたしは、高荷先生のことは、普段は〝よっちゃん〟と呼んでいる。この愛称は高荷先生の師匠である小松崎先生の命名で、結構気に入っている)も参加しており、AFV業界の著名人があまた参加していた。
同人誌「SANDO」。AFV(装甲戦闘車両)愛好会「三土会」の会報。昭和40年代後半に活動。

「岸川さんの大好きな高荷さんの原稿も載っているから」と大塚さん。「こんな貴重なもの、いただけません」と私は遠慮すると、大塚さんはにっこり笑って、こうおっしゃった。「いいんです、ボクは書いていないから」
「あっ、これもお持ちなさい」と大塚さんがジープに乗った写真(本記事のメイン写真)なども渡してくれた。70年代、奥さんに内緒でジープなど6台(!)も所有していた頃の写真だ。両方とも、ありがたくいただいた。

後日、敏夫さんにその話をすると「たぶん、形見分けだね。とっておきなさい」とおっしゃられた。
それからしばらくは、そんなことは無かったようなお付き合いが続いた。80歳を過ぎた時、大塚さんは運転免許を返納された。自分の反射神経に自信が持てなくなったので、そう判断したのだ。あんなに車が、運転がお好きだったのに決断すると潔かった。
それからはわたしが車を仕立てて、模型店などに出かけるようになった。

2016年年末、大塚さんは出かけようとしたバス停で腰が抜けて歩けなくなり、救急車で運ばれ、2ヶ月の入院生活を余儀なくされることになった。
退院したあとの大塚さんは、明らかに人が変わっていた。以前のような柔和な中にも垣間見えた精悍さが無くなっていた。具体的にどう変わったのかを書くのはむずかしい。ただ、『機動戦士ガンダム』でアムロがサイド6で父親と再会したときに似た気分だったのは否めない。

それでも、愛車だったフィアット500の1/12スケールでイタリアのメーカーから発売されますと伝えすれば「買ってください」とお願いされるし、かつて、大塚さんの故郷・山口県を走っていた蒸気機関車C-57門鉄デフの話題が出れば「ナメクジね(C-57型のボイラー上にあるドームが長い形状の型の愛称)。あれは良かった」と即座に答えがかえってくる。
▲「FIAT 500F」(1/12 イタレリ)を手にする大塚さん。ジープと共に愛着がある車。2018年2月撮影。

その一方で、パソコンのログインパスワードをお忘れになっていたりした。ある意味、幼児退行が始まっていたのかもしれない。
それだけに、わたしが帰るとき、いつものようにご自宅の門まで見送ってくれる姿を、後ろ髪を惹ひかれる気持ちで何度も振り返った。その姿はいまも目に焼き付いている。

アニメージュプラス編集部