喪失と再生の物語(その1)藤津亮太【アニメ評論家】
神楽を見る人だかりの中に、少女とその両親が立っている。母親が少しかっこをつけて神楽の真似をする。父親がふざけて、娘の頬をつまむ。そこに見られる的確な演技や、ほっぺたの柔らかさの官能性を見れば、本作が背筋を伸ばして見るべき映画であることはすぐにわかる。それは丁寧に作られたアニメーションがどれほど心地よいものかを実感させてくれる94分間の始まりである。
本編が始まれば、漫画的でありながら心地よい立体感を感じさせるキャラクターの描き方に加え、カメラの横移動から生まれる立体感を、Bookのスライドで巧みに表現するカットもしばしば登場して、本作は「絵の向こう側にある“本物”を実感させる技」への尊敬で形作られていることがよくわかる。
一見、記号化されているように見えても、その奥に“本物”が見える。そのような姿勢は、映画『若おかみは小学生!』の物語構成の中にも見ることができる。
原作は児童文学で、旅館を訪れるお客などを縦軸に各巻完結でエピソードが作られている。それが全20巻まで続いたのだから、その人気の度合はよくわかる。映画に先行したTVシリーズも基本的に原作の趣向を踏襲して作られていた。
だが映画は90分でひとつの感情的なゴールを目指さなくてはならない。そのため映画は、主人公のおっこというキャラクターを、もう少しだけ実感できるように、原作からさらに解像度を上げて解釈している。ポイントは解像度を上げて、という点で、ないものを足したり、まったく作り変えているわけではない、ということだ。
両親を失いながら、明朗快活に働くおっこというキャラクターは、『アルプスの少女ハイジ』の主人公ハイジを思わせる。どちらも持ち前の明るさが、周囲の人を笑顔にする力を持っている向日性のキャラクターだ。
映画はそんなおっこの中を探って、もうひとつ別の要素を見つけた。おっこは“ハイジ”であると同時に“クララ”でもあるのだ。それによっておっこというキャラクターの解像度がぐっと上がることになった。
クララは体が弱く、車椅子に乗り、家の中でばかり過ごしている。彼女は、体力的な問題で歩けないこともさることながら、友達が誰もいないというその孤独こそが癒やされる必要のあるキャラクターだった。おっこもまた、両親の死という傷が癒やされる必要のあるキャラクターなのである。
おっこの中には“ハイジ”と“クララ”がいる。そう見立ててみると、この映画は“ハイジ”の快活さで表層のストーリーを進めつつ、その背後で“クララ”の回復の物語が進んでいく構成であることがよくわかる。
冒頭の幸福な神楽見物のシーンに続いて描かれるのは、原作では詳細に描かれたとはいえない交通事故シーン。そこをしっかりと描写したことで、早々に観客は、頭を切り替えることを求められる。この映画は、若おかみの明朗な活躍を描きつつ、同時におっこの“喪の仕事”を描く映画でもあるのだ、と。“喪の仕事”とは、喪失体験から立ち直っていく心の過程のことである。
本稿の後半「その2」はこちら▲アニメージュ2019年1月号に掲載された高坂希太郎監督の描き下ろしイラスト